金沢城・加賀藩と強く結びついたまち 石の道筋から、文教ゾーン、商店街へ変貌
「石引」という町名は、江戸時代初期、金沢城の石垣を築くための戸室石を引いた道筋であったことに由来します。金沢城および加賀藩と強く結びついたまちとして歴史を刻み、現在まで発展を続けてきた石引の歩みをたどります。
戸室石は金沢城から東へ約12キロ離れた戸室山から切り出され、田上橋で浅野川を越えてから小立野台地へ引き上げられました。亀坂を上り切って下馬地蔵に至り、あとは一直線に城へ向かって石引通りを進みました。
下馬地蔵は戸室石を引く作業の安全を祈って建立され、加賀藩3代藩主・前田利常夫人・珠姫の菩提寺・天徳院(小立野4丁目)が建立されてからは、天徳院の下馬先(馬をおりる所)として祠が設けられました。この地蔵は現在も地元の人々の信仰を集め、毎年8月には地蔵祭りが行われています。
亀坂
金沢城石川門の石垣
下馬地蔵
御山まつりでの石曳きの光景
石引の寺院を含む小立野寺院群は、寺町、卯辰山の寺院群とともに金沢の3寺院群の一つに数えられ、いざ戦となれば、金沢城の防御砦の役割を持っていたともいわれています。小立野台地の先端にある金沢城にとって、敵が高い位置から城を狙えるこの地は弱点であり、特に防御を固める必要があったのです。
小立野寺院群に特徴的なのは、藩主前田家や将軍徳川家とつながりのある寺が多いことです。天徳院にまつられた珠姫は2代将軍徳川秀忠の二女で、如来寺(小立野5丁目)には珠姫の命により初代将軍徳川家康の位牌が安置されました。宝円寺(宝町)は前田家の菩提寺であり、波着寺(石引2丁目)は初代藩主・前田利家の祈願所でした。石引は加賀藩にとって重要なエリアであり、前田家の家臣・家来の家が建ち並び、「二十人町」には足軽二十人組が住んでいました。また、商家も建ち並び、江戸時代から現在にのれんを受け継ぐ老舗もあります。
如来寺
如来寺正面に見られる徳川家家紋(左)と前田家家紋
宝円寺
天徳院
波着寺
旧二十人町の碑
二十人坂付近
明治時代を迎え、石川県立第二中学校(現・金沢くらしの博物館)が建つと石引は文教ゾーンの色合いを帯び、昭和に入ると金沢大学医学部、金沢美術工芸大学などが次々と建ちました。
こうした歴史を背景に、石引は「学生のまち」としての性格を強め、金沢大学の城内キャンパスが角間に移転するまでは医学部以外の金大生も多く石引に住んでいました。その頃を知る人にとって、夜の10時を過ぎても学生が町内を歩いていた光景は懐かしい思い出となっています。
昭和40年代の街並み(「石引商店街振興組合50周年記念式典資料」より)
旧石川県立第二中学校校舎
金沢大学附属病院
金沢大学病院前 石引広見の戸室石の水辺
戦後の高度経済成長期には石引商店街の近代化が進み、昭和40年代半ば(1970頃)には道路の拡幅、アーケードの設置、店舗兼住宅の共同ビル建設で装いを一新しました。昭和42年(1967)まで石引通りには市電が通っていて、これも年輩の方々にとっては懐かしい光景です。
石引は昔から町内の結束が強いまちで、大正4年(1915)には町会の「石引大四会」が組織されています。平成27年(2015)にはその石引大四会100周年と石引商店街振興組合50周年の記念式典が盛大に執り行われました。
市電が通っていた頃の光景(石引商店街振興組合『ぶらり石引』より)
路上で市電の線路が存在感を放つ(「石引商店街振興組合50周年記念式典資料」より)
盆踊り(石引商店街振興組合『ぶらり石引』より)
金沢大学病院前から見た石引通り
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